中野の書いたブログ「女性であることを強みにかえて。戦う女・石岡瑛子の広告アートディレクション術 」に続き、昭和のデザインを追って、一気に戦前・戦中まで遡ってみようと思います。
時は1942年、東方社という出版社のもとで、プロパガンダを目的とするグラフ誌「FRONT」は創刊されました。激動の国際情勢を反映した内容と、その卓越した表現力・技術力から、戦前・戦中を代表する対外宣伝グラフ誌としてデザイン史に今も名を刻んでいます。
この他に類のない宣伝誌を生み出したのは、原弘や木村伊兵衛をはじめとするデザイナーや写真家たち。 本日は「FRONT」を軸に、制作に関わった人びととその関連書籍をご紹介します。
FRONT 復刻版 第1期
1942年から1945年までに出版された「FRONT」は全9冊(終戦直前まで制作されていた「戦時東京号」は東京大空襲で消失したため、未刊)。戦後、オリジナル版はそのほとんどが失われましたが、1989年に平凡社より復刻されたのがこの「FRONT 復刻版 第1期」です。
それでは、本巻を構成する海軍号、満州国建設号、空軍号をひも解いてみましょう。
海軍号より。合成を効果的に使用したレイアウト。
さらに、手前の水兵と奥の戦艦を2色で刷り分けて強調。
海軍号より。左頁は行進が近づいてくるという映像的効果を写真で表現。右頁からせりだした砲身が奥行きを感じさせる効果も。「FRONT」はソ連の対外宣伝グラフ誌「USSR in construction(ソビエト連邦建設)」を参考に制作されたこともあり、ロシア・アヴァンギャルドで多用された表現手法が随所に盛りこまれています。
海軍号より。写真のブレが伝える臨場感。
軍艦や戦闘機、工場など軍事機密に関わる部分はエアブラシで緻密に修正されています。
海軍号より。テキストはモンゴル語。大東亜共栄圏向けに作られた「FRONT」は15カ国もの言語が使用されました。が、戦時中に活字を集めるには大変な苦労がともないます。例えばモンゴル語はハルピンの印刷所から取り寄せ、ビルマ語にいたっては活字も写植もなく、ビルマ人の留学生に平ペンで手書きしてもらったという逸話も。アルファベットは凸版印刷の欧文活字からフランクリン・ゴシックを使用しています。
海軍号より。パイロットのアップと背景に配置されたシーン別の写真。
組写真として、全体でひとつの主題を表現。
東方社の写真部主任を努めた木村伊兵衛は当時40代、そのもとで働く部員たちはなんと全員20代。彼らはカメラを手に飛行機・戦車・潜水艦などに搭乗し、南はインドネシア・北はシベリア国境まで飛び回るという過酷な取材行程にもかかわらず、クオリティの高い仕事をし続けました。 昭和の男たちのバイタリティたるや、すさまじい。ちなみにカメラは、ライカ社やローライ社のものを使用していたとのこと。
若手写真部の中には濱谷浩の名も。東方社を去ったのちも、ルポルタージュ写真をはじめとするすぐれた作品を残しました。代表作「雪国」は北陸地方の風景とそこに生きる人々を追った写真集です。
満州国建設号より。見上げる角度の人物写真と遠近感をもたせた背景写真の組み合わせは、現代の広告でもよく使われている手法ですね。
満州国建設号より。ハルピン市街の風景と、笑顔の女性や人びとを組み合わせて平和な情景を演出。
東方社美術部主任・原弘は、若かりし日にエル・リシツキーによる斬新なデザインに衝撃を受け、タイポグラフィの理論を研究し、写真とタイポグラフィによる視覚伝達に国内でいちはやく取り組んだ人物としても知られます。現代日本におけるグラフィックデザインの潮流は、原弘というひとりのデザイナーによってはじまったといっても過言ではありません。ポスターや装丁を中心とするその優れた仕事は、大判作品集「グラフィックデザインの源流」や展示図録「原弘と東京国立近代美術館」で見ることができます。
空軍号より。本号に掲載されている飛行中の機体の向きはすべて右向き。
頁をめくる方向と一致させ、スピード感を演出する実験的な試み。
前述のように全号を通し、「FRONT」の制作を担ったのは東方社。物資も人員も不足するなかで仕事を全うしたこの技術者集団には、いったいどんな人びとが集い、どんな思いで働いていたのでしょうか。海外のすぐれた技術を取り入れ、さらなる向上を追い求めるその姿勢からは、国家主義の枠におさまらない柔軟で進歩的な思想がうかがえます。
戦中は軍事色の強くなった対外宣伝グラフ誌ですが、戦前・戦後はオリンピック招致や文化振興、観光案内などを目的としたものも数多く刊行されました。1931年からの約40年にわたって発行された日本のグラフ誌をまとめたのが「Books on Japan 1931−1972 日本の対外宣伝グラフ誌」。名取洋之助率いる日本工房による「NIPPON」をはじめ、106点の貴重な書影が掲載されています。
それでは、本巻を構成する海軍号、満州国建設号、空軍号をひも解いてみましょう。
海軍号より。合成を効果的に使用したレイアウト。
さらに、手前の水兵と奥の戦艦を2色で刷り分けて強調。
海軍号より。左頁は行進が近づいてくるという映像的効果を写真で表現。右頁からせりだした砲身が奥行きを感じさせる効果も。「FRONT」はソ連の対外宣伝グラフ誌「USSR in construction(ソビエト連邦建設)」を参考に制作されたこともあり、ロシア・アヴァンギャルドで多用された表現手法が随所に盛りこまれています。
海軍号より。写真のブレが伝える臨場感。
軍艦や戦闘機、工場など軍事機密に関わる部分はエアブラシで緻密に修正されています。
海軍号より。テキストはモンゴル語。大東亜共栄圏向けに作られた「FRONT」は15カ国もの言語が使用されました。が、戦時中に活字を集めるには大変な苦労がともないます。例えばモンゴル語はハルピンの印刷所から取り寄せ、ビルマ語にいたっては活字も写植もなく、ビルマ人の留学生に平ペンで手書きしてもらったという逸話も。アルファベットは凸版印刷の欧文活字からフランクリン・ゴシックを使用しています。
海軍号より。パイロットのアップと背景に配置されたシーン別の写真。
組写真として、全体でひとつの主題を表現。
東方社の写真部主任を努めた木村伊兵衛は当時40代、そのもとで働く部員たちはなんと全員20代。彼らはカメラを手に飛行機・戦車・潜水艦などに搭乗し、南はインドネシア・北はシベリア国境まで飛び回るという過酷な取材行程にもかかわらず、クオリティの高い仕事をし続けました。 昭和の男たちのバイタリティたるや、すさまじい。ちなみにカメラは、ライカ社やローライ社のものを使用していたとのこと。
木村伊兵衛展 The Man With the Camera
20世紀の日本を代表する写真家・木村伊兵衛の展示の図録。木村の写真が使用された広告やポスター、雑誌のほか、報道写真、映画の撮影風景を収めた写真などをカラーとモノクロで多数掲載。
満州国建設号より。見上げる角度の人物写真と遠近感をもたせた背景写真の組み合わせは、現代の広告でもよく使われている手法ですね。
満州国建設号より。ハルピン市街の風景と、笑顔の女性や人びとを組み合わせて平和な情景を演出。
東方社美術部主任・原弘は、若かりし日にエル・リシツキーによる斬新なデザインに衝撃を受け、タイポグラフィの理論を研究し、写真とタイポグラフィによる視覚伝達に国内でいちはやく取り組んだ人物としても知られます。現代日本におけるグラフィックデザインの潮流は、原弘というひとりのデザイナーによってはじまったといっても過言ではありません。ポスターや装丁を中心とするその優れた仕事は、大判作品集「グラフィックデザインの源流」や展示図録「原弘と東京国立近代美術館」で見ることができます。
原弘の作品集。ポスターデザイン、ブックデザインなどのビジュアルをカラーで多数掲載。解説と併せて一冊にまとめた貴重なサンプルカタログ「紙の本」も別冊で付属。
2012年に開催された「原弘と東京国立近代美術館 デザインワークを通して見えてくるもの」展図録。対外宣伝グラフ誌「FRONT」や様々な展覧会のためのポスターワークなどを多数収録。
空軍号より。本号に掲載されている飛行中の機体の向きはすべて右向き。
頁をめくる方向と一致させ、スピード感を演出する実験的な試み。
前述のように全号を通し、「FRONT」の制作を担ったのは東方社。物資も人員も不足するなかで仕事を全うしたこの技術者集団には、いったいどんな人びとが集い、どんな思いで働いていたのでしょうか。海外のすぐれた技術を取り入れ、さらなる向上を追い求めるその姿勢からは、国家主義の枠におさまらない柔軟で進歩的な思想がうかがえます。
FRONT 復刻版 第1期
- 編集
- 恩地邦郎
- 出版社
- 三省堂
- 発行年
- 1982年
戦時中に発行された対外宣伝誌「FRONT」復刻版第1期。名立たるデザイナーや写真家がスタッフとして集結し、後の日本デザイン史・写真史に多大な影響を及ぼした。本巻は海軍号、満州国建設号、空軍号、そして解説冊子のセット。
日本の対外宣伝グラフ誌を編纂。日本工房「NIPPON」や東方社「FRONT」など106点のグラフ誌から、選りすぐりのジャケットと本文をカラーで掲載。
ですが、感傷や政治的な思想はさておき、先人たちの遺したすぐれたデザインと歴史背景とを照らし合わせつつ現代へ繋がる系譜をたぐれば、もっと多角的な視野で物ごとを捉え、あらたな発見を得ることもできるはず。そういった意味で、この稀有なグラフ誌の役割はきっとまだ終わっていないのです。
それでは、また。