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バウハウス(bauhaus)の教育者たち。ヨハネス・イッテンとモホリ=ナジ
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バウハウス(bauhaus)の教育者たち。ヨハネス・イッテンとモホリ=ナジ

こんにちは、中野です。

バウハウス」というと、グラフィックデザイナーであれば一度は耳にしたことがあるかと思いますが、実は具体的にあまりよくわかっていない、という方も多いのでは?

僕もさっぱり知りませんでした。 「バウハウスっぽい」「バウハウスの影響が〜」などと聞いて、「ほうほう。ふむふむ」などと知ったかぶりしてはいけません。 知らないときは、歴史を調べてみよう、ということで、本日はバウハウス。

特集:デザイン史に残る芸術学校「バウハウス」の歩み でも展開しているバウハウス関連書籍はノストスブックスでも安定した人気があります。

バウハウスとは、1919年にドイツに設立された、工芸・写真・デザイン・美術・建築の総合的な教育機関のこと。すべての芸術の総合を目指した教育理念こそが後の現代美術に大きな影響を与えたと言われています。美大のようなイメージなのでしょうか?日本でもバウハウスをモデルにして発足した桑沢デザイン研究所などが有名です。

今回は、豪華な教師陣の中からヨハネス・イッテンとモホリ=ナジをフォーカスします。


ヨハネス・イッテンの色彩論

色彩の芸術

色彩の芸術

著者
山脇道子
出版社
新潮社
発行年
1995年
バウハウスの芸術家・教育者、ヨハネス・イッテンによる色彩論集「色彩の芸術―色彩の主観的経験と客観的原理」改訂新版。
ヨハネス・イッテンは設立したばかりのバウハウス・ワイマール校で予備課程を担当しました。 合理主義的(機能主義的)なものと表現主義的(神秘主義・精神主義的、芸術的、手工業的)なものとをミックスし、教育課程に取り入れました。

「この書をわが愛する学生諸君に贈る」という冒頭の宣言から始まるこちらの一冊は、理論は知識として持つことが重要である、というコンセプトで書かれたもの。教育者として中心的な人物であり、初期バウハウスの方針にも多くの影響を与えました。

冒頭でヨハネス・イッテンは、「デザインの法則の知識に拘束される必要はない。その知識は各人をまよいや優柔不断な態度から解放するものなのだ。」というように、理論としての知識は創作に寄り添う道標になるものだ、という定義づけをしています。

色彩の芸術 色彩の実感と色彩効果の章。色の組み合わせによってどのように印象が変わるのかを解説。目と心は比較と対比によって明確に知覚することができる。物理科学的事実と違い、色を知覚することは心理的生理学的事実である。説得力があります。

色彩の芸術 調和の定義。人それぞれに調和と不調和の判断は異なるが、調和のとれた配色とは類似の彩度を持つ色同士、もしくは同じ明度に属する異なる色同士で構成される。

色彩の芸術 色彩の芸術 色彩対比は7種類あり、最も単純なのは色相対比。少なくとも3色の明瞭に区別された色相が必要である。この理論を使って陽気さや深い悲しみ、普遍性や単純性など様々な表現ができる、と。なるほど〜。

色彩の芸術 この挿絵も色相対比を使って描かれている。なにこの本、面白い。

色彩の芸術 色彩の芸術 寒暖対比。

色彩の芸術 補色対比。

色彩を知ることは、自然界のあらゆる生成の永遠の法則を体験することだ、というヨハネス・イッテン先生。すべての説明がとてもわかりやすいです。 良い先生だったんでしょうね。

教育者として道を示す

ヨハネス・イッテン 造形芸術への道

ヨハネス・イッテン 造形芸術への道

著者
ドロレス・デナーロ
出版社
京都国立近代美術館
発行年
2003年
「ヨハネス・イッテン 造形芸術への道」展図録。バウハウス時代の芸術家・教育者、ヨハネス・イッテンの作品多数をカラー&モノクロで収録、併せて詳細な解説テキストを掲載。
ヨハネス・イッテンが他の美術家と大きく違った点は、教師として修練を積んだということと、人生の多くの時間を教育者として過ごした、というところ。「芸術」はそれに魅力を覚えるすべての人が習得できるものである、という確信を持っていました。

ヨハネス・イッテン 造形芸術への道 ヨハネス・イッテン 造形芸術への道 ヨハネス・イッテン 造形芸術への道 ヨハネス・イッテン 造形芸術への道 美大行ってないから知りませんが、美大の授業ってこんな感じなんでしょうか?こんなに教えてくれるなんてむちゃくちゃ楽しそう。

ヨハネス・イッテン 造形芸術への道 ヨハネス・イッテン作品:炎の塔とそのスケッチ。

ヨハネス・イッテン 造形芸術への道 ヨハネス・イッテン 造形芸術への道 ヨハネス・イッテン 造形芸術への道 道を示す、という教育方針を持ち、「自分自身へ通ずる道を各自が見つけ出すこと」のみを追求しました。精神主義にも通じるこの思想を伴うことで、校長であるヴァルター・グロピウスの考え方と相容れず、1923年には解雇されてしまいます。

モホイ=ナジ 視覚の実験室

モホイ=ナジ 視覚の実験室

モホイ=ナジ 視覚の実験室

監修
井口壽乃
出版社
国書刊行会
発行年
2011年
バウハウスの教師をつとめ、写真・建築・絵画・彫刻・タイポグラフィなど多領域に渡り活躍したモホリ=ナジ・ラースローの図録。
ヨハネス・イッテンが去り、ベルリンで活動していたモホリ=ナジはバウハウスに招かれます。ダダやロシア構成主義に多大なる影響を受けた前衛芸術家はバウハウスを次なる実験の場として選びました。

モホイ=ナジ 視覚の実験室 バウハウス叢書をまとめ上げ、バウハウスの創作と理論は、世界中の芸術家に影響を与えることになります。

モホイ=ナジ 視覚の実験室 モホイ=ナジ 視覚の実験室 モホイ=ナジ 視覚の実験室 モホイ=ナジ 視覚の実験室 フォトモンタージュも多く手がけています。構図が美しい。

モホイ=ナジ 視覚の実験室 モホイ=ナジ 視覚の実験室 モホイ=ナジ 視覚の実験室 モホイ=ナジ 視覚の実験室 印画紙の上に直接物を置いて感光させるフォトグラムという表現方法を使った作品の数々。

新しい技術を積極的に取り入れ、バウハウスが掲げる芸術と技術の融合を強固なものにしたモホリ=ナジですが、5年余りの教壇生活も、グロピウスが辞任すると同時に教壇を離れました。

山脇道子:日本人初の入学者

バウハウスと茶の湯

バウハウスと茶の湯

著者
山脇道子
出版社
新潮社
発行年
1995年
茶の湯の世界に生まれた著者が、弱冠二十歳にして造形大学バウハウスに入学。カンディンスキー、ミース・ファン・デル・ローエ、パウル・クレーらとの親密な交流、そして学生生活を綴った回顧録。
最後は読み物を。

裏千家の茶人の娘として婿養子を取ることが条件だった山脇家。見合い相手の建築家巌は、バウハウスへの留学を条件に出して快諾される、というなんだそりゃエピソードから始まる本書。著者である山脇道子はバウハウスに全く興味はなく、夫についてドイツにいけば良いのだ、とぼんやり思っていたのですが、あれよあれよと入学してしまいます。

入学したのはバウハウス・デッサヴ校。

バウハウスと茶の湯 巌と道子の学生証。

バウハウスと茶の湯 習作の数々。レタリングもこうして習っていたんですね。

バウハウスと茶の湯 バウハウスと茶の湯 バウハウスと茶の湯 カンディンスキーの授業での習作。

バウハウスで学んだことは「ものを見る目」だったと振り返る山脇道子の言葉が印象的でした。まるで興味のなかったバウハウスにどんどんのめり込んでいく様が物語として面白い。帰国後はテキスタイル・デザイナーとして活躍します。
確固とした教育理念とそれを支えた豪華な教師陣。しかし残念なことにこちらもまたナチス、戦争という政治的圧力により、解体されてしまいます。 ワイマール校、デッサウ校、ベルリン校と14年の間に3度も移転を繰り返したバウハウスの短い活動はここに幕を閉じますが、バウハウスが掲げた理想は後世に多大なる影響を与えました。

マルセル・ブロイヤーから影響を受けたイームズやバウハウス思想を積極的に学んだ柳宗理。 今や定番となったFutura書体を作ったパウル・レナーもバウハウスの講師でした。

現在のバウハウス的なもの=合理主義・機能主義的なものというイメージは、「形態は機能にしたがう」という言葉を実践した思想・理念なのではないでしょうか?

こんな学校入りたい。



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ノストスブックス店主。歴史と古いモノ大好き。パンク大好き。羽良多平吉と上村一夫と赤瀬川原平と小村雪岱に憧れている。バンドやりたい。