『瀧口修造 夢の漂流物』という図録が初めてノストスに入荷したのが、今年7月のこと。そこに収録されているアート作品の数々は圧巻で、これまで何度もその名を目にしながらも、実は深く入り込んだことのなかった「瀧口修造」という人物に、初めて強く興味を惹かれた瞬間でした。
そして氏の歩みを辿っていくうちに、感動を通り越して感謝の気持ちが湧いたのです。当時、海外と日本の架け橋となり、また若き芸術家を応援し続けた氏の存在があったからこそ、いまこうして私達が素晴らしい作品に触れることができるのだなと。
ということで、今回は瀧口修造と、氏を取り巻いた芸術家たちについて紹介したいと思います。
人生における宿命、シュルレアリスムとの出会い
1903年、祖父の代から医者という家庭の長男として生まれた瀧口修造。幼少期から父の書斎がわりの一室で、文芸書や雑誌などに触れて育ちました。
運命的な出来事が起こったのは、應義塾大学在学時。イギリスから帰国した教授・西脇順三郎を通じて、ダダイスムや、初期シュルレアリスムと出会います。次第にアルチュール・ランボーやアンドレ・ブルトンの原書にも影響を受け、実験的な詩作品も発表していきました。
1930年にはブルドンの著書「超現実主義と絵画」を翻訳。本書は日本にとってブルトンやシュルレアリスムを最初に紹介した、歴史的出版物と言われています。
翻訳した当時、瀧口氏はなんと若干27歳!(ひー私とほぼ同い年!)
インターネットはおろか、翻訳のための十分な資料もなかったなかでの偉業。この難解な芸術論を理解し、そして日本に伝えようとせんとする情熱がいかに強かったかを物語ります。
ちなみにアンドレ・ブルトンと瀧口修造が実際に対面を果たしたのは意外にも遅く、翻訳から30年弱ほども経った1958年のこと。
パリに構えられた書斎で、最初に「写真を撮ろう」と持ちかけたのは、ブルトンの方からだったそうですよ。心なしか緊張しているようにも見える瀧口氏。
そして瀧口氏自身もアーティストとして、デカルコマニーやドローイングをはじめとする、多数のアート作品を手がけています。
デカルコマニーとは、水で濃淡をつけたグアッシュを紙に塗り広げ、上から重ねたもう一枚の紙に写しとる技法のこと。鑑賞者、そして制作者自身も、自然にできた予測不可能な形象に向き合うこととなります。
“自由旅券”と題されたこの小冊子は、旅に出る友人に瀧口氏が贈ったいわばお守りのようなもの。自作のデッサンや詩などが添えられています。
ちなみに、今年開催されていた展示「瀧口修造と彼が見つめた作家たち」では、このリバティ・パスポートを模した小冊子が一人一冊無料で配布されたのです。超テンションあがりました。
瀧口氏自身の評論、エッセイに触れたいという方はこちらを。画家論をはじめ、アンドレ・ブルトンの書斎を訪れた際の記録を含むヨーロッパ旅行記、そして自らについてを語っています。
運命的な出来事が起こったのは、應義塾大学在学時。イギリスから帰国した教授・西脇順三郎を通じて、ダダイスムや、初期シュルレアリスムと出会います。次第にアルチュール・ランボーやアンドレ・ブルトンの原書にも影響を受け、実験的な詩作品も発表していきました。
1930年にはブルドンの著書「超現実主義と絵画」を翻訳。本書は日本にとってブルトンやシュルレアリスムを最初に紹介した、歴史的出版物と言われています。
翻訳した当時、瀧口氏はなんと若干27歳!(ひー私とほぼ同い年!)
インターネットはおろか、翻訳のための十分な資料もなかったなかでの偉業。この難解な芸術論を理解し、そして日本に伝えようとせんとする情熱がいかに強かったかを物語ります。
ちなみにアンドレ・ブルトンと瀧口修造が実際に対面を果たしたのは意外にも遅く、翻訳から30年弱ほども経った1958年のこと。
パリに構えられた書斎で、最初に「写真を撮ろう」と持ちかけたのは、ブルトンの方からだったそうですよ。心なしか緊張しているようにも見える瀧口氏。
そして瀧口氏自身もアーティストとして、デカルコマニーやドローイングをはじめとする、多数のアート作品を手がけています。
デカルコマニーとは、水で濃淡をつけたグアッシュを紙に塗り広げ、上から重ねたもう一枚の紙に写しとる技法のこと。鑑賞者、そして制作者自身も、自然にできた予測不可能な形象に向き合うこととなります。
“自由旅券”と題されたこの小冊子は、旅に出る友人に瀧口氏が贈ったいわばお守りのようなもの。自作のデッサンや詩などが添えられています。
ちなみに、今年開催されていた展示「瀧口修造と彼が見つめた作家たち」では、このリバティ・パスポートを模した小冊子が一人一冊無料で配布されたのです。超テンションあがりました。
瀧口氏自身の評論、エッセイに触れたいという方はこちらを。画家論をはじめ、アンドレ・ブルトンの書斎を訪れた際の記録を含むヨーロッパ旅行記、そして自らについてを語っています。
コレクション瀧口修造 Ⅰ
- 監修
- 大岡信、武満徹、巖谷國士 他
- 出版社
- みすず書房
- 発行年
- 1991年
瀧口修造の評論、エッセイ集。「幻想画家論」「ヨーロッパ紀行 1958」「自らを語る」の3章で構成し、クレー、エルンスト、デュシャンら芸術家評から自身の日常までを綴る。
タケミヤ画廊に実験工房。加納光於や野中ユリら若手芸術家への支援と交流
先に述べたとおり、瀧口修造は若い芸術家たちを活動面、精神面ともに支えた功労者でもあります。
版画家、画家として活動する加納光於も、瀧口修造に見出された作家のひとり。1956年には瀧口氏の推薦で、東京神田・駿河台下のタケミヤ画廊で初個展を開催しています。
タケミヤ画廊は無償で作品発表の場を提供し、そして企画者である瀧口氏もまた、無償を条件に人選・交渉を一手に引き受けていました。当時、まだ無名でお金のなかった若手作家たちにとって、こうした支援はどれほど心強かったことでしょう。
>>加納光於関連本はこちら
野中ユリも加納光於と同様、1956年にタケミヤ画廊の銅版画展に出品。タケミヤ画廊への出品者記録にはこの2人のほかに、草間彌生、駒井哲郎、瑛九といった、錚々たる作家が名を連ねています。豪華すぎてよだれが出そう。
高等学校在学中から瀧口氏の著書や詩に触れ、自身もデカルコマニー作品を手がけている野中ユリ。瀧口氏から受けた影響の大きさがうかがい知れますね。
>>野中ユリ関連本はこちら
読売新聞社が主催した、当時の若手アーティストの登竜門となっていた展示会・読売アンデパンダン展。赤瀬川原平もまた、この展示会出品者のひとりで、千円札モチーフにした作品で逮捕されたのは有名な話。
瀧口氏はこの読売アンデパンダン展に美術評論を寄せており、これによりジャーナリスティックな美術批評の仕事が本格化していったのです。
>>赤瀬川原平関連本はこちら
こちらのブログもあわせてご覧ください。
北代省三は、瀧口氏が主催した総合芸術グループ「実験工房」のメンバーのひとり。武満徹、山口勝弘、駒井哲郎といった若き芸術家たちで構成され、ともに芸術の実験と総合を目指していました。
北代省三の作品は、こちらの図録で詳しく紹介されています。
瀧口修造と関わりがあった作家については、こちらのエッセイ集がおすすめです。巖谷國士による瀧口修造論に加え、氏をとりまく32人についてのエッセイが収められています。
版画家、画家として活動する加納光於も、瀧口修造に見出された作家のひとり。1956年には瀧口氏の推薦で、東京神田・駿河台下のタケミヤ画廊で初個展を開催しています。
タケミヤ画廊は無償で作品発表の場を提供し、そして企画者である瀧口氏もまた、無償を条件に人選・交渉を一手に引き受けていました。当時、まだ無名でお金のなかった若手作家たちにとって、こうした支援はどれほど心強かったことでしょう。
>>加納光於関連本はこちら
野中ユリも加納光於と同様、1956年にタケミヤ画廊の銅版画展に出品。タケミヤ画廊への出品者記録にはこの2人のほかに、草間彌生、駒井哲郎、瑛九といった、錚々たる作家が名を連ねています。豪華すぎてよだれが出そう。
高等学校在学中から瀧口氏の著書や詩に触れ、自身もデカルコマニー作品を手がけている野中ユリ。瀧口氏から受けた影響の大きさがうかがい知れますね。
>>野中ユリ関連本はこちら
読売新聞社が主催した、当時の若手アーティストの登竜門となっていた展示会・読売アンデパンダン展。赤瀬川原平もまた、この展示会出品者のひとりで、千円札モチーフにした作品で逮捕されたのは有名な話。
瀧口氏はこの読売アンデパンダン展に美術評論を寄せており、これによりジャーナリスティックな美術批評の仕事が本格化していったのです。
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スタッフ日記 | おすすめ書籍
赤瀬川原平記。ハイレッド・センターからトマソンまで、現代アート界の風雲児を追う
赤瀬川原平記。ハイレッド・センターからトマソンまで、現代アート界の風雲児を追う
「心はいつもアヴァンギャルド」という自らの言葉のとおり、人生を駆け抜けた現代美術家・赤瀬川原平。今回は60年代まで遡り、赤瀬川原平の足跡を追ってみたいと思います。
北代省三は、瀧口氏が主催した総合芸術グループ「実験工房」のメンバーのひとり。武満徹、山口勝弘、駒井哲郎といった若き芸術家たちで構成され、ともに芸術の実験と総合を目指していました。
北代省三の作品は、こちらの図録で詳しく紹介されています。
2013年に川崎市岡本太郎美術館で開催された「かたちとシミュレーション 北代省三の写真と実験」の展覧会図録。北代省三の写真やペインティング、立体作品などを収録。
瀧口修造と関わりがあった作家については、こちらのエッセイ集がおすすめです。巖谷國士による瀧口修造論に加え、氏をとりまく32人についてのエッセイが収められています。
封印された星 瀧口修造と日本のアーティストたち
- 著者
- 巖谷國士
- 出版社
- 平凡社
- 発行年
- 2004年
巖谷國士によるエッセイ集。瀧口修造と、瀧口修造に関わりのあったアーティストらをめぐるエッセイをまとめたもの。
ミロとの共作にデュシャンのサイン。小さな書斎に集まった、夢の漂流物たち
そして最後は、私が瀧口修造に興味を持つきっかけとなった氏の私蔵品にも注目したいと思います。
1945年の空襲で自宅を焼かれてしまった氏は、その後10年ほど世田谷界隈で暮らしたのち、西落合を終の住処としました。その家の書斎には、日頃から多くの芸術家や編集者、研究者らが訪れていたといいます。
そうした人々との交流によって、数々の美術品やオブジェが氏のもとに流れ着いたのです。 草間彌生は渡米する際、個展のために持っていく作品が足りず、瀧口氏宅に飾ってあった2作品を借りて旅立ったというエピドードも。自身が持っていた作品はすべて燃やしてしまったらしい(もったいない)。
ジョアン・ミロと瀧口氏の出会いは1966年、ミロが東京展のために訪日したのがきっかけでした。瀧口氏のミロ論刊行や、フランス語に訳した詩をプレゼントしたことで急速に親睦を深めた二人。
詩を瀧口修造、画をミロが手がけた共作も生まれています。
いつの頃からか「オブジェの店」を出すという想像をめぐらしていた瀧口氏。その架空の店の店名と看板の文字を、マルセル・デュシャンに依頼して、届いたのがこちらのサインです。
この「ローズ・セラヴィ」とは、でデュシャンが1920年ごろから使用している偽名。2人の間で交わされたあたたかなやりとりが目に浮かぶ。
貴重な品々に鼻息が荒くなってキリがないので、ここまでにしておきます。 最後に「夢の漂流物」に掲載された、著者『余白に書く』の再録から。
かっこよすぎる。
1945年の空襲で自宅を焼かれてしまった氏は、その後10年ほど世田谷界隈で暮らしたのち、西落合を終の住処としました。その家の書斎には、日頃から多くの芸術家や編集者、研究者らが訪れていたといいます。
そうした人々との交流によって、数々の美術品やオブジェが氏のもとに流れ着いたのです。 草間彌生は渡米する際、個展のために持っていく作品が足りず、瀧口氏宅に飾ってあった2作品を借りて旅立ったというエピドードも。自身が持っていた作品はすべて燃やしてしまったらしい(もったいない)。
ジョアン・ミロと瀧口氏の出会いは1966年、ミロが東京展のために訪日したのがきっかけでした。瀧口氏のミロ論刊行や、フランス語に訳した詩をプレゼントしたことで急速に親睦を深めた二人。
詩を瀧口修造、画をミロが手がけた共作も生まれています。
いつの頃からか「オブジェの店」を出すという想像をめぐらしていた瀧口氏。その架空の店の店名と看板の文字を、マルセル・デュシャンに依頼して、届いたのがこちらのサインです。
この「ローズ・セラヴィ」とは、でデュシャンが1920年ごろから使用している偽名。2人の間で交わされたあたたかなやりとりが目に浮かぶ。
貴重な品々に鼻息が荒くなってキリがないので、ここまでにしておきます。 最後に「夢の漂流物」に掲載された、著者『余白に書く』の再録から。
私の部屋にあるものは蒐集品ではない。その連想が私独自のもので結ばれている記念品の貼りまぜである。時間と埃をも含めて。
-(略)-
そのごっちゃなものがどんな次元で結合し、交錯しているかは私だけが知っている。
かっこよすぎる。
瀧口修造: 夢の漂流物
- 編集
- 杉山悦子、杉野秀樹 他
- 出版社
- 世田谷美術館
- 発行年
- 2005年
巖谷國士によるエッセイ集。瀧口修造と、瀧口修造に関わりのあったアーティストらをめぐるエッセイをまとめたもの。
それではまた。